〈コラム〉建立委員会ニュースで見る 大杉栄らの墓誌ができるまで

静岡に大杉栄の墓があると知ったのはいつ頃だろうか。学生時代(90年代前半)に墓前祭実行委員会が出した冊子を読んでかと思う。インターネットがまだない時代、その冊子に掲載された2枚の写真と「沓谷霊園」という名称だけを頼りに、静岡市まで墓を探しに行って、お参りしたのが懐かしく思い出される。

当文献センター書庫で資料探しをしていたところ、「大杉栄らの墓誌建立委員会ニュース」(1976年)1号〜4号を見つける。思えば、このニュースを見るまで荒畑寒村による碑文が刻まれた墓誌(碑文は下段に掲載)がいつ誰の手によって建てられたのか知らなかった。というわけで、このニュースとともに墓誌建立の経緯を振り返ってみたい。

そもそもは、1973年の虐殺五〇年祭が荒畑寒村、近藤真柄、瀬戸内晴美(現寂聴)を迎えて静岡で開催され、その際に瀬戸内氏が「一緒に虐殺された伊藤野枝、橘宗一もここに埋葬されている事実を明示しておくべき」という提案がなされたのが発端だったようだ。ただこの時は実現に至らなかった。

その後、名古屋市の日泰寺で橘宗一少年の墓碑が発見されたことから大きく動き始める。近藤真柄を中心とした保存運動が始まり、墓碑の移築を終えた75年に当地で墓前祭が営まれる。その際、近藤から「大杉の墓に墓誌建設を」という希望が山梨の遠藤斌を通じて静岡に伝えられ、富士地区合同労組、富士在住のアナキストグループ、島田の大塚昇、遠藤らで会合が始まる。大杉家の意向も確認して、近藤、荒畑の協力も得、76年5月「大杉栄ら墓誌建立委員会」(代表・近藤真柄)が発足。募金は静岡県評や五〇年祭関係者、向井孝らの努力もあり、合計で100万円以上を集めたという。

ここでふと疑問に思うのは、なぜ大杉の墓が静岡にあったのか。同ニュースによれば、大杉の父・東が退役後に住んでいた清水市(現静岡市清水区)で亡くなりその遺骨は同市の鉄舟寺に納められた、大杉の妹菊が柴田家に嫁ぎ静岡市鷹匠に住んでいた、という縁のようだ。大杉死後、親族は同じ鉄舟寺に納める意向だったが、当地の在郷軍人会の反対運動を背景に、寺が反対し断念。当時の新聞(静岡民友、大正12年12月)では「檀徒でなく宗教否定の大杉の埋骨は断然拒絶する」という住職の談話があるから、相当な拒否にあったのであろう。結局、静岡市の沓谷霊園に納められることになる。

ついに、1976年9月16日、荒畑、瀬戸内、大杉・野枝の遺児である菅沼幸子らを迎えて、除幕式が行われる。全国から多くの人が駆けつけ、マスコミの取材も多数あったという。(編集部 K)

【碑文】
大杉栄は明治十八年 軍人の家に生まる 陸軍幼年学校を放たれ外国語学校仏語科に学び 日露開戦に際し非戦論に共鳴して社会主義者となる 資性剛毅 才華煥發 無政府主義の一派を拓いて政府の弾壓に屈せず 幾度か牢獄の苦を忍び迫害の鉄火を践めり 大正十一年 日本脱出 仏蘭西亡命 故国送還の波瀾を圣 関東大震災に遭遇して妻の伊藤野枝 甥橘宗一と共に軍憲のために虐殺せられ 惜むべし雄志逸材むなしく中道に潰ゆ

荒畑寒村撰

一九二三(大正十二)年九月十六日虐殺された大杉栄(一八八五年一月十七日生 享年三十八歳) 妻伊藤野技(一八九五年一月二十一日生 享年二十八歳) 甥橘宗一(一九一七年四月十二日生 享年六歳)の遺骨を翌年五月二十五日この地に収む

一九七六年九月十六日
大杉栄らの墓誌建立委員会


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