(本稿は、2012年12月に開催された「アナキズムカレンダー2013・大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺90周年 刊行記念トークイベント」での矢野寛治さん(『伊藤野枝と代準介』著者)の講演を編集部でまとめて『文献センター通信』42号、43号に掲載したものに、同カレンダーに掲載した写真を付して再録したものです。/文献センター通信編集部)
まず私の自己紹介をします。生まれは大分県中津市という町で、昭和23年生まれの64歳。4年前に博報堂を退職いたしました。博報堂に入社後の25歳のときに九州支社に行き、管理部にいる女性と結婚をしました。結婚するときに義理の母に呼ばれまして、「あなたは伊藤野枝を知っているか」と聞かれ、大学3年か4年のときに新宿アートシアターで吉田喜重さんの「エロス+虐殺」は観ていたので、「少しは知ってます」と。次に「大杉栄を知っているか」というので、(映画で大杉栄役の)細川俊之だなと思って「だいたい知ってます」と答えました。そしたら「うちは伊藤野枝を育てた家である」という自己紹介を受けました。
伊藤野枝を育てたのが、女房の曽祖父である代準介という人です。代準介は玄洋社の頭山満の親戚でもあり、玄洋社の金庫番をしていました。金庫番といえば杉山茂丸–夢野久作の父ですが–が1番ですが、この杉山と一緒になってやっていました。ただ、晩年はいろいろあり、玄洋社から名前を抜いておりますので、玄洋社には代準介という名前は残っていません。
昭和初期に代準介が渋谷の頭山満邸に行ったとき、「これからおまえどうする」と頭から言われ、「自叙伝を書こうと思っている」というと「それはいい。じゃあ題字を書いてやる」というエピソードが残っております。(代家に残された)この代準介の自叙伝『牟田乃落穂』の中には生い立ちはもちろん、大杉事件以降に遺児たちを引き取ったことなども書いています。
義理の母がこの自叙伝を見せて、(代準介について)吝嗇だとか世間ではいろいろと言われていると。これは伊藤野枝が書いた『わがまヽ』という(『青鞜』に掲載された)小説によるもので、青鞜に入り、それまで肩身の狭い思いをしていたこともあり、自分をよく見せるために(叔父のことは悪く)書いたのだろうと思います。それはそれでいいんですが、ただ後世の野枝研究家が(小説の内容を)真に受けて、(間違った代準介像を)子引き、孫引きしていきます。
もう一つ義理の母が言ったのが、(代の娘)千代子が辻潤と不倫したという(間違った)ことが(伝わっているのが)非常に残念だということ。これは瀬戸内寂聴さん(当時、晴美)が『美は乱調にあり』のなかで、野枝が『青鞜』二代目編集長になり、忙しく家にも帰らないので、(従姉の)千代子が辻潤の家に来て、身の回りの世話をしたと書いているんですね。でもそれは絶対にあり得ないことです。千代子は福岡で大正元年に長男・泰介を生み、大正3年12月に私の義理の母を生んでいます。九州鉄道に勤務する夫の柴田勝三郎は毎日帰宅します。2歳の長男と生まれたての乳飲み子を抱えて、東京の辻の家に行けるわけはない。不倫なんてできるわけがありません。これは瀬戸内さんの全くの創作です。
代準介は13歳で天涯孤独になります。母親が死に、父親が別の女と長崎に行ってしまい、村で荒れた田んぼ(牟田)を耕して一人で食べていきます。尋常小学校しか出ていませんが、13歳で本(貸本)屋をはじめます。20歳で村の収入役、いまでいう村長に当選します。そしてこれを辞めて長崎に出て相良商店に入ります。そこで気に入られてモト子と結婚します。モト子は野枝のライバルとなる千代子を生み、千代子が12歳のときに病気でなくなります。
ですので、それまで(代家と)野枝は関係ありませんが、いろいろな作家が野枝は8歳で代準介の家に来たと書いてます。例えば井出文子さんは10歳で来たと書いてますが、それはありえません。というのは、明治38年にモト子が亡くなり、代準介と幼馴染である(野枝の父親の)伊藤亀吉が、喪が明けた翌39年に代に(亀吉の妹)キチを後添えにと薦めます。野枝はそのとき11歳。後添えにきた瞬間に姪っ子を食べさせてくれと言えるかどうか。11歳から来たとも考えられなくはないが、長崎新聞とか新聞に記録が残るのが12歳なので、8歳とか10歳とかではなく、キチが嫁いでからではないか考えられる。
代は40歳のときに頭山満に会いに行きます。幼いときから頭山を尊敬していました。さらに長崎に代商店を残して、東京の根岸に家を借りて、セルロイド加工業を始めます。それで国の土地転売などいろいろなことを頭山に頼んだり、逆に頭山の意向で動いたり、杉山茂丸ほどの大物ではないが、政商のように動いていた。杉山とも組んで動いたり、後藤新平とか板垣退助ともつながっていた。板垣とは両国(国技館)の席が隣同士で相撲を見ていたと自叙伝には書いています。
そのころに、アメリカに行けるならと野枝はアメリカ帰りの末松福太郎と仮祝言を挙げます。ところがアメリカに行かないことになり、それならイヤだと東京の辻潤のところへ行ってしまう。そのことで辻潤が(上野高女を)首になり、そして野枝は青鞜に入ります。
先ほど申し上げた野枝の小説『わがまヽ』では、叔父が非常に吝嗇で、学校の月謝を払うのがイヤだから仮祝言をさせ、相手方の実家から月謝を送らせたとありますが、そのころ、代準介は非常にお金がかかると言われる相撲で、友綱部屋の後援会を作り、また雷部屋の後援会も作っています。相撲取りのタニマチをしているときに、当時の上野高女の月謝が3円から5円、いま日本で月謝が高いと言われる、例えば福岡の雙葉(学園)では35000円です。この35000円欲しさに仮祝言をあげさせて、月謝を送らせるというような身分ではありません。
野枝は一学年上の千代子のすることを何でも真似するなど、野枝にとって千代子が唯一のライバルでした。つまり自分ほど頭のよい女が家が貧しいばかりに親戚を転々とし、どうして肩身狭く暮らすのだと。なぜ能力もない-勉強は野枝のほうができるんですね-千代子がこんな暮らしをしているんだ、今に見てろと。このまま(高等小卒業後に就職した)郵便局で終わりたくないと代準介に手紙を出して、とうとう上野高女に入ります。
当初、代準介は野枝を(年齢通り)千代子の一年下の3年生に入れようとしたが、野枝がどうしても(千代子と)同じ学年に飛び級で入るという。当時は能力がよければ飛び級は当たり前でしたから。そして、飛び級の試験を受けて4年生に入ります。千代子は3年、4年と学級委員長でしたが、5年は野枝が委員長になります。『牟田乃落穂』で代準介は、野枝は千代子にへつらわずと書いてます。野枝に見所があるとは褒めてないが、でもその文章を読むと好感を持っている。自分も13(歳)から一人で飯を食ってますから、根性がある人間が好きだったという感じはします。
千代子を超えてやるという思いで野枝はほぼ一番で上野高女を出ます。上野高女の卒業式の写真が我が家のアルバムにありますが、トリミングしカットされている。瀬戸内さんが東京新聞や西日本新聞等で連載した『この道』では、卒業式に辻潤は病気で休んでいると書いてますが、休んでいません。辻潤は(トリミング前の写真にはちゃんと)います。どうも代準介は、辻さんをあまり好ましく思っていなかったんだと思います。辻潤は何回も福岡に来てますが、代は『牟田乃落穂』では一切触れていません。
逆に大杉はべた褒めです。アナーキストなんだけど、話をしているとなかなか正しいこと言っているし、明るい。最初は吃音だったが、だんだんと話していると快活で如才なく良いと非常に褒めています。つまり大杉さんには魅力があったのだと思います。玄洋社の代準介とアナーキスト(の大杉)が合うわけはない。しかし、どの道であれ、人のために頑張っている人間を、頭山満もそうであったように、代準介も好きだった。
現在では、右と左で分けてますが、そうではなくて、人々や地域、もしくは国家のために頑張っている人間は全部好きだった。代の「君の考えはいつ実現できるか」という大杉への質問が『牟田乃落穂』にあります。大杉は「永久にできないかもしれない。でもその道を行く」と答えたと書いてます。特段、代準介はそういう台詞が好きだったようです。
(大杉と野枝が殺されたという)電報が入り、代準介はすぐ東京に入ろうとしますが、戒厳令下のために東京には入れません。そこで福岡県警で証明書を取ってから東京に入ります。この上京について、瀬戸内さんほかいろいろな方が(野枝の)父親の亀吉も行ったと書いていますが、同行していません。代準介だけでした。これは当時の大阪朝日新聞にも書かれています。東京では手に入らないということで大人用2つと子供用の棺桶を買って東京へ行きます。ただ東京へは名古屋から先は(東海道線では)動きませんから、名古屋から中央線で新宿のほうまで入ることになります。この間のことについて、新聞では大阪で子供のためのお菓子を購入したと書かれています。
代準介が来るということで新宿駅では特高の車が迎えに来ています。これについて私は、頭山満が裏から動いたのか思っておりましたが、そうではないようで、特高としては福岡県警からも言われているし、便宜上用意したということです。新聞には、当時の東京の各新聞社が6〜7台の車でその後ろをついて回ったと書かれています。新聞社が、特高が車を動かさないときは自分たちの車を使ってくれと提供してくれたと書いていますので、(代準介は)頭山満の子分ではもちろんあるけれど、当時はそこそこ名前が売れていたのだと思います。そうでない限り、新聞社が各社1台の車を出そうなんてことはないでしょうし、常に特高が警護しているなんてこともなかったでしょう。
(遺体の安置場所に)訪問した日には遺体を引き取れないので、頭山とか三浦観樹陸軍中将とかその辺を動かして遺体を引き取るということをやります。遺体を引き取り、荼毘にふして、そして遺骨を大杉家と分けて、中仙道経由で遺児たちを連れて帰るのですが、当時の湯浅警視総監は非常に憲兵隊に対して怒っていたんですね。どうも警視総監の文言を読むと大杉さんは嫌いじゃないらしいんですが、憲兵隊がなぜ勝手に殺すのだということを後藤新平内務大臣に対してクレームを出すんです。これが閣議で問題になって、それで軍が発表するわけです。本当は永久にわからないようにしていたんです。それで問題になって、佐野眞一さんが『甘粕正彦 乱心の曠野』でお書きになってますが、甘粕が罪を被ったのかもしれません。詳しくは不明です。
九州に遺児を連れて帰るときですが、長野県塩尻までは警視庁の刑事が3人つきました。この際、赤子(長男ネストル)を抱いていたほかに魔子(真子)とエマ(笑子)がおり、代準介のほかにはお手伝いさんと叔母の坂口モトと神戸の大杉の弟進がいました。何が大変かと言うと、行くところ行くところ新聞記者がきてインタビューされたということです。
当時、野枝は(代のことを)叔父とは書いていましたが、父親だと思っています。というのも、(実の父親)亀吉はなかなかハンサムだったので、ご婦人問題が多くて、よく逐電しているんですね。ですから、家にいないんです。だから代準介を父親だと思っていました。虐殺のあと全国から40〜50通の手紙が来たことが(『牟田乃落穂』に)書かれています。そのうち、5通くらいは「国賊」と言うことで批判的な手紙もありましたが、残りの40数通に関しては、幼い子まで殺す憲兵隊について許せない、涙が出るという手紙でした。日本中、代準介を野枝の父親と思っていたようで、「福岡県福岡市 大杉の妻の野枝の父 代準介」宛で郵便が届いていたんです。これをみても彼は育英にお金を相当かけて、多くの貧しい子を東京に出し、学問させていました。野枝も小説に(代の悪口を)書きましたが、ずっと金銭面では頼ったり、お金がないときは頭山や杉山茂丸のところに行ってお金を借りたりしていました。ところが様々な研究者はその事実を飛ばして、ただ彼らに会ってお金を借りているという事実しか書いていない。二十歳近くの野枝が突然、頭山や後藤新平に会えるがわけがない。それは調査不足です。代は(野枝が)上野高女時代から霊南坂の頭山の家にいつも連れて行っております。実の娘である千代子はもちろんかわいいが、野枝もかわいいと思っていました。野枝は宝なんです。誇りなんです。二十歳で『青鞜』の編集長をはるってことは、なかなかよくやっているなと。だから、姪っ子ではあるけれど、娘みたいなものだと、自分の関係筋に紹介して回ってます。だから(野枝は)頭山の縁も頼れるんです。その視点が研究者たちにはありません。
(3人の)葬儀についてですが、在郷軍人会を始めとする様々な右翼が反対したなか、代は動きました。まず警察関係で全部許可を取ります。遺児たちについては、伊藤家で4人の面倒は不可能なので、魔子は代家が引き取ります。東京の葬儀の時には(大杉の仲間たちから)魔子を連れてきてほしいと言われて、警察の許可を取り、代準介は魔子を連れて上京します。魔子は当時のアナーキストたちのアイドルだったんですね。
九州へ連れて帰った遺児たちは無戸籍でしたので、代が市役所関係に掛け合って戸籍の復活をします。悪魔の子の「魔子」ではまずかろうということで真実の「真子」に変え、「エマ」は笑う子の「笑子」にして、「ルイズ」は「留意子」に。ネストルは父親が殺されたので父親の名前をそのままつけようと「栄」、という改名作業をします。これもなかなか大変な作業でした。葬儀のときも右翼や在郷軍人会などが反対しましたが、無事に実施できたのは、当時福岡で実力があった水平社-そこには松本治一郎という大物がいました-が周辺警備をしました。いまでも福岡は水平社が強いですが、その水平社が防御に入るとなかなか在郷軍人会でも反対するのは無理です。それにより葬儀は実施できましたが、世間はなかなか大杉と野枝に関して冷たかったのです。新聞はほとんど甘粕をほめるんですね。謹厳実直で兄弟想い、家にも仕送りしているような立派な人と。逆に殺された大杉らは輪をかけて叩かれた感じがします。
代準介は、三菱造船関係の仕事と杉山茂丸と組み、今宿や博多の港湾を作ったり、博多駅の移転させる問題-悪く言えば土地転がしですが-など様々なことをやっています。堅気っぽくはない。ある意味で「政商」「山師」なところがありますが、最後は大勝負に負けました。杉山茂丸と組んで比延に博多駅を移転しようとしましたが、失敗。5万坪がふいになり、素寒貧になりました。
野枝は全集4巻が出ておりますが、10年間にこれだけの原稿を書くのかというくらい書いています。もし彼女が虐殺されずにいたら、戦後の第一回総選挙は、因縁の神近市子と一緒に赤絨毯を踏んだであろうと思います。ライバル論として言えば、やはり千代子がライバルでした。(上野高女を卒業し)『青鞜』に入りましたが、『青鞜』には女子英語塾(現、津田塾)、日本女子、御茶ノ水-当時すでに四年制大学-を出たような人間がずらっと揃っています。九州の貧乏人の子がなんとかして上野高女を卒業して入っていったら、千代子どころでないライバルがずらっといた。このライバルたちに負けるもんかとなりました。この中で一番のライバルが神近市子でした。神近は女子英語塾(現、津田塾)へ予科にいかず本科に入っているくらいの相当の英語力のある頭の良い人だった。学歴がない身として、そのなかでのしていくには、辻潤の英語、大杉の思想を身に着けていくしかなかった。
大杉と一緒になり、ライバルに打ち勝っていくと登場してくるのは日本矯風連盟とかです。野枝が本当にやりたかったことは、女中さん、女郎さん、女工さん、この3つの非常に大変な仕事に携わる人たちのために論を張ってやっていきたいと行動していくことでした。矯風連盟などの良家のお嬢様が上の立場から「あの子たちを助けてやりたいわね」という姿勢と対決してきました。野枝にとって、まやかしの人助けなどというものはありえないと。
この本(『伊藤野枝と代準介』)の執筆にとりかかるとき、野枝の全集読んだりしているうちに、最後はよく闘ったなと非常に惚れました。あとがきを脱稿したのが、9月16日、まさに殺された日でした。大杉もそのようにして惚れていきました。私はあまりアナーキズムに対して好意的ではなかったのですが、そのようなことではなく、労働者がもっとよい暮らしができるようにというのが大杉の考えであり、野枝は貧しい女たちがどのようにしたら苦界から抜け出せるのか、その一点だけでしたから、「左翼だ」「アカだ」「共産主義」だということは関係ない。玄洋社の頭山満にも様々な間違いはあったかもしれないが、どちらも道は違えどもがんばった人間たちだと思います。
◉質問
・代準介が遺児を引き取ったあと、右翼の妨害などがあるなかで頭山との関係や商売などにはどのような影響があったか。
影響はありました。それまでは県警本部が代のところに相談にきて物事を解決したりしていたこともありましたが、この事件以降の代の立場は社会的に弱くなっていっていきます。商売にも影響したでしょうが、代にとっては何ともなかったようです。また、隠忍自重して東京の渋谷(頭山邸)にも行っていなかったようです。というのも、殺された後に行ったところ、右翼がいて甘粕嘆願の署名を書けと。そんなことができるわけがない。自分のかわいい娘が殺されたようなものですから。そこを立ち去ることなどが(『牟田乃落穂』に)たくさん書かれています。またあるときは、(監獄の)甘粕に差し入れをする連中の車に頭山が乗り、「おまえも乗っていけ」と乗りはするんですが、監獄の前で降りて帰った場面もあります。その10年後に、頭山からあのときは呉越同舟みたいで悪かったなと言われたというようなことも書いています。
代本人は玄洋社に名を残しませんでしたが、(『牟田乃落穂』で)明快に書いているのは、左翼のほうが知的で品格があったと。みんながやさしく立派だと。(3人の)遺骨を引き取りにいったとき、内田魯庵以下、仲間たちが大杉と野枝の家に集まり、今後の対策について話し合っているときも、みんな品がいいと。それに比べると玄洋社に集まる右翼は品が悪いと書いています。彼のなかでは兄貴として頭山に憧れてきたけども、様々な人と会っていくうちに、社会主義者といわれた人たちのやさしさや知性、教養、品格というものがわかってきたようです。