【緊急寄稿】
感染症×アナキスト(教育編)/海老原弘子

「感染症×アナキスト(教育編)
〈アナキスト教育者/フェレ・イ・グアルディア〉」

当センター通信で連載「テキスト×アナキスト」がスタートしたばかりの海老原弘子さんによる緊急寄稿「感染症×アナキスト」前編(教育編)を掲載します。
*後編はこちらから→医療編-〈アナキスト医師/イサック・プエンテ〉

ガウディと反カトリック運動

サグラダファミリア(聖家族教会)の建築家として知られるアントニ・ガウディ。建築家を志してバルセロナで暮らし始めた若きガウディは、同じくレウス出身の実業家フランセスク・オリベがカタルーニャ広場近くに開いたカフェ・ペライオに足を運んだ。そこの常連の一人だったのが、同郷の友人ジョセップ・リュナス・プジャルス。《対脳ダイナマイト(書物によるプロパガンダ)》 を提唱して、後にカタルーニャのアナルコシンディカリズムの第一人者と目される印刷工である。1875年に開店したペライオは「《Anticlerical/反教権主義》のカフェ」として知られ、 カトリック教会を批判するスピーチや討論会が日々繰り広げられていた。

スペインにおいてカトリック教会は、信仰の名の下に盲目的な忠誠と絶対的な服従を民衆に求めることで、君主を頂点とする権威主義的な階級社会を正当化する役割を担い、国家との間に強力な共存関係を築いてきた。科学の進歩や技術の革新によって世界が急速に変化し始めた時も、宗教的見地からあらゆる変革に異議を唱えるカトリック教会の存在によって、スペインは変化を求める時代の要請を受け入れることができず、機能不全に陥った旧態依然のシステムにしがみついていた。 そんなスペインを18世紀末から苦しませていたのが、富の源だった植民地の喪失と貿易相手国の政情不安による未曾有の経済危機だった。失業の増加と生活必需品の高騰によって労働者階級の暮らしは日ごとに悪化していった。貧困と未来への不安を訴える人々に対して、教会は「全ては神の意思」と自制と忍耐を説き、焼け石に水の限定的な慈善活動でお茶を濁すだけ。人々の心が信仰と教会から離れていったのも当然だろう。

加えて、リュナスのようなカタルーニャのアナキストたちは「社会の変革は、社会の構成員である人間を変革することで実現する」という考えから、文化的な覇権を奪取することで革命を実現しようとしていた。社会変革を目指して《文化によるプロパガンダ》を進めるアナキストたちの前に立ちはだかった最大の障壁は、宗主国の地位を失い国家アイデンティティの危機にあった政府ではなく、何世紀にも渡って教育と文化を牛耳ってきたカトリック教会であった。こうしてカタルーニャのアナキズムは反教権主義の性質を色濃く帯び、バルセロナはスペインの反カトリック教会運動の中心地となった。ガウディも、教会の肥大した権力を批判して声を上げる若者の一人だったのだ。

アナキズムと教育

バルセロナのシンボルとされる宗教建築を手がけたことで、敬虔なカトリックとして歴史に名を残すガウディだが、反教権主義は捨ててもアナキストたちとの交流で身につけた生活習慣までは変えなかった。死ぬまで菜食主義とヌーディズムの実践を貫き、毎日全裸での水浴を欠かさなかったという。実はカタルーニャに、定期的な水浴によって身体を清潔に保つというような、衛生の概念と実践を持ち込んだのはアナキストなのだ。アナキズムの思想に基づく教育法の実践の場となった学校が《Escuela Moderna/現代の学校》と名付けられたのは、施設の中にそれまでの学校にはなかった新しい設備「洗面所」を備えていたからにほかならない。

《現代の学校》の生みの親フランシスコ・フェレ・イ・グアルディアは、 1859年にカタルーニャの海沿いの街アレリャに生まれた。職を求めてバルセロナに出ると、労働組合が運営する夜間学校に通い、《知識による人間の解放》 を目指すアナキズムの思想に触れる。その後、国鉄の検札係の職につくが、《書物によるプロパガンダ》の実践として列車の中に移動図書館を設立して会社と一悶着起こした。 失敗に終わる共和政移行の企てに参加したことで、1886年にスペインを追われてパリへ亡命。そこでエリゼ・ルクリュ、シャルル・マラート、ジャン・グラーヴらと知り合って、アナキズムの思想を基礎にした教育の実践に興味を持つようになる。フランス第三共和政の学校制度について「神が国家に変わっただけ」と教育内容が愛国主義的で権威主義的だと批判したフェレが、自らの理想とする教育を実践したのが《現代の学校》だった。

《現代の学校》は1901年9月にバルセロナで産声をあげる。最初は女児12人・男児18人の計30人の生徒から始まったが、世俗主義、 反資本主義、反軍国主義を中心に据えた教育法が急速に支持を拡大し、1904年にはバルセロナだけで10校、生徒約1000人を抱えるまでに成長。カタルーニャに47校のほか、マドリード、アンダルシア、ポルトガルといった地域や、サンパウロ、ローザンヌ、アムステルダムという都市にまで広がっていく。ところが、1906年アルフォンソ13世暗殺未遂事件が起こると、犯人が《現代の学校》の図書室係だったことから関与が疑われ、フェレは逮捕されて学校は閉鎖となった。フェレは自他共に認める非暴力主義者だったにもかかわらず。

アナキストの衛生学

裁判の結果無罪となって釈放されたフェレは、パリとブリュッセルを行き来する亡命生活の中で、5年余りの《現代の学校》での実践と経験に基づいて自らの教育法をまとめた著作『Escuela Moderna』を執筆した。全17章で構成される本書の中でも衛生教育には丸々一章が当てられ、子どもたちが身だしなみを身につけることの重要性が説かれている。教育を人間の解放のプロセスとみなし、学校を知識の獲得にとどまらない統合的な教育の場にすることを目指したフェレにとって、衛生教育は重要なテーマの一つだった。当時のスペインでは劣悪な住環境や児童労働、さらには感染症の蔓延によって、労働者階級の子供の死亡率が非常に高かったため、子どもたちに教育の機会を保証するという点でも、子どもを疫病から解放することが急務だったからだ。

「衛生に関してスペインはカトリックの不潔さに支配されている」という痛烈な教会批判でこの章は始まる。カトリック教会が一貫して科学や理性を拒絶し、進歩の目覚しい医学や衛生学などに目もくれなかったこともあり、学校が感染症拡大の震源地となっていた。同級生から感染した子どもが家庭に感染症を持ち込み、兄弟姉妹、親と同居家族、さらには近隣住民へと感染が広がるのだ。厳格なカトリック教育を受けて育ったフェレは「《現代の学校》の教育法の基礎は自分が受けたものと正反対にすることだった」と語り、子どもたちに厳しい規律を課して、権威への盲目的な服従を求めるカトリック教会の教育に対して、科学的な知識に触れることで理性的な判断や自主性を育むという方針で挑んでいく。

感染症の蔓延を防ぐため、フェレは採光や換気を第一に考えた作りの校舎に暖房やトイレを備え付け、子どもたちの環境と行動を変えることから始めることにした。学校で 身につけた身だしなみの習慣を子どもたちが地域や家庭に持ち帰り、兄弟姉妹や親あるいは隣人や友達に教えることで、公衆衛生を社会に浸透させることができると考えたためだ。衛生の授業で子どもたちに健康の価値やその維持の大切さを説き、手洗い、うがい、水浴を実践させる。さらには、健康的な生活を送れるように、スポーツの授業や校医による健康状態のチェックも取り入れた。子どもが学校に行くことで健康を維持できることが分かれば、教育に熱心でない親でも子どもを学校に行かせるようになる。こうして《現代の学校》は急速に社会に受け入れられていった。

異端審問の犠牲者

1919年7月バルセロナでは、モロッコへの派兵拒否が暴力的な反政府行動へと発展する。《Semana Trágica/悲劇の週間》と呼ばれる出来事で、70人を超える死者を出し、80の教会関連施設を含めて100以上の建物が放火された。この事件に関連して2000人以上が裁判にかけられ、労働組合と世俗主義の学校は閉鎖される。そして暴動を煽動した責任者として逮捕されたのが、家族を見舞うために偶然バルセロナに戻っていたフェレだった。軍事法廷による異例のスピード裁判で死刑を宣告されると、ピョートル・クロポトキン、アナトール・フランス、エマ・ゴールドマンなどが次々と抗議の声をあげるが、10月13日バルセロナのモンジュイックで銃殺される。最後の言葉は「《現代の学校》よ、永遠に!(¡Viva La Escuela Moderna!)」であった。

その死に際してアルベール・カミュは 「(フェレは)何人も自発的に悪人になることはなく、世界にあるすべての悪は無知に由来すると考えた。だからこそ、無知な人々が彼を殺害したのだ。そして、執拗に繰り返される異端審問を通じて、今日もまだ犯罪的な無知は生き長らえている。しかしながら、それでもなお、犠牲者の中にはフェレのように生き続ける者がいる」と綴った。

カミュの予言通り、フェレ亡き後もその思想が死ぬことはなかった。スペインの第二共和政は男女共学、世俗主義、衛生教育といった《現代の学校》の教育法を取り入れ、市民戦争下のアナキズム革命においては接収された教会や豪邸が次々に学校へと転用された。その教育法は欧州やアメリカ大陸にも広がり、フランス、ベルギー、ポルトガル、米国、ブラジルなど、彼の名前を冠した通りや広場は世界各地に60を超える。

フェレの殺害現場となったバルセロナのモンジュイックは、1992年の五輪のメイン会場となったことで大きくその姿を変え、理性と知識の松明を頭上に高く掲げるフェレの彫刻があることを除いて、処刑場だったかつての面影は残っていない。

(えびはら・ひろこ:カタルーニャのアナキズム愛好家)

後編はこちらから→医療編-〈アナキスト医師/イサック・プエンテ〉

アナキズム文献センター収蔵の平井文庫より。本書は1976年版で、
アンセルモ・ロレンソの手による序章、フェレに宛てたクロポトキンの手紙、
エリゼ・ルクリュやセバスティアン・ファウレらの教育論も収録されている。

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