「いいなあ、私の生活の中で少しはできるかしら」と思って工夫をする、それはもうあなたのアナーキズム。
(今年1月11日、戸田三三冬さんが永眠されました。謹んでご冥福をお祈りし、ここに戸田さんの文章を関係者の承諾を得た上で全文掲載いたします。/文献センター通信編集委員会)
「アナーキーな幸せ/戸田三三冬」
◉アナーキーとアナーキズム
「アナーキー」と「アナーキズム」という言葉がありますね。アナーキーというのは、たとえば今ここに7人いるけれど、7人なら7人の人がそれぞれすごく自分らしくあって、それで全員が調和できる世界なんですね。一見混沌としているわけよ。「はい、あっち向いてください。今度はこっちを向いて」みたいに上からつくってしまう秩序があるでしょ。だけどアナーキーというのは上からつくる秩序ではないわけ。宇宙だって混沌としてるようだけど、宇宙は宇宙なりの調和があるから地球だって落っこちないわけですね。
上から命令する形の世界というのは三角形ができていて、頂点に皇帝とか王様、大将、お父さん、会社の社長というように命令する人がいる。その人の命令はチャッと通る、下の人は「はい」「はい」って言わないといけない。これも一つの秩序ですね。
だけど、アナーキーというのはその180度違う反対側にあって、そういう形をつくらない世界。たぶん宇宙ができてきたときから内的なハーモニーがあるから地球生態系とかができてきたんだと思うんですね。
一つひとつが違ってて、有機的にアメーバ状に動いてるんだけど、動きながらその中に秩序がある、本来、人間の生命とかいろんな生態系の生命とかいうのがみんな一緒になって動いていて、それでそこにハーモニーがある、というのがアナーキーだと思うんですね。こういうアナーキーの対極に人間がつくってきたひとつの秩序があって、それは三角形になっている、というイメージを私はもっているんです。
もうひとつ別の説明の仕方だと、私は20代のころから坐禅をしているんですが、「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」(*1)というお経があるのね。衆生って宇宙全部なんだけど、全部と一緒に自分も救われたいし、宇宙もみな救われますようにっていう祈り・希(ねが)いなんです。これは私が考えるアナーキーの世界にぴったりだと思うのね。混沌の中に自ずら調和があるんだけど、私たちはたまたま人間として生まれてきて、人間として生きていくわけですね。つまりそういう混沌の中にあって、感じたり、考えたり、自分の考えを伝えたり、愛したり、憎んだりする存在なわけでしょ。
アナーキーの中にいて、みんなそれぞれ違うんだけど、その一瞬一瞬の命を受け入れて、みんな一緒に助け合って生きていきましょうという希いがないと、人間の世界ってメチャメチャになってしまうと思うんですね。そういう希いをもたないと「いのち」が開けない、人間ってそういう存在だと思う。
もし動物だったら、ちゃんと本能で生きていけるけれど、人間というのはやはり「希い」をもたないと人間になれないというか、人間のいのちを生きていくことが難しい。きっとそうだから古代に仏陀やキリストが生まれて、人間というのはこういうふうに生きていかなければいけないんだよ、ということを教えたんじゃないかと思うんです。
私は今、エッリーコ・マラテスタ(1853〜1932)という人について勉強しているんですが、いろんなアナーキズムの考え方がある中で、マラテスタが言っているアナーキズムが私にはいちばんぴったりするのね。彼の説明だと、「アナーキー」はギリシャ語から来た葉で、支配のないことである。「アナーキズム」というのは支配のない世界を実現するための方法である、と言うのね。
マラテスタは19世紀のイタリアに生まれた人ですから、フランス革命のあとの世界の人なんですね。政治学ではフランス革命以後というのは近代社会だと言われていますね。現代まで含めて近代がここから始まったと考えられている。今の国家の制度というか政治の組織というのはだいたいヨーロッパの近代国家がモデルなんですね。
ヨーロッパ型の国家って何かというと議会(立法)があって、行政、司法、軍隊がある、それを全部ひっくるめて、政府(国家機構)と考えると、その政府が国家の支配の秩序をつくっている。三角形のヒエラルキーで人々を支配する構造になっています。
*1 衆生無辺誓願度:菩薩が、あらゆる生き物を救いたいと願う四つの大きな願いのひとつ。量の計り知れないほど多くの人々を、生死の苦しみから救おうと誓うこと。
◉国家と社会の違い
国家と社会は違います。社会というのは人間生まれた時からずっとありますから、女がいて男がいて子どもを産んでそこに集団ができて集落ができたりすれば、もう人が2人いれば社会だから、人間は人間になったときからずっと社会があるわけですね。だけど、19世紀から20世紀には、近代国家という枠がバーンと社会の上にはめ込まれてしまった、と考えればわかりやすい。知らない間に私たちはその中に住んでいて国家はだいたい教育を握ってますから、国家の思うような人間をつくろうというので、人が生まれたときからヒエラルキーを上から課してくるんです。
日本では生まれたらまず戸籍(*2)をつくらなければいけないよ、というので国家に登録されるわけですね。とくに日本と日本の植民地制度の下にあった韓国、台湾には戸籍があるんですね。世界でいちばん厳しい管理の体制で、生まれた途端に国家にちゃんとヒモをつけて握っていますよという状態に置かれる。
近代国家そのものが枠をはめてしまった特殊な人間社会なんだけど、その中でも特殊で厳しい日本の社会は、人間が生まれたときから自由に呼吸できる空間を奪ってしまって、人々を国家の思うように動かそうとしてきたと思うんですね。そして資本主義のお金の世界が政治の世界にベッタリくっついて、このままいくとみんなそっちに引っぱっていかれちゃう、というのが日本の現状ではないかしら。
近代国家の男は、どこの国でもまず兵士になるための男なんですよ。兵士がいなければ国は強くなれない、近代国家はどんな民主的な国家でもみんな軍事国家ですから、兵士になるために男をつくる。その男を産むのは女、男をケアするのも女、男が戦争に行くときに後ろで全部準備するのは女。兵士をつくるための男、それを助けるための女という役割分担をするように、近代国家はだいたいなっている。
日本の中というのは、もっとすごい。日本がここまで経済的に立ちいくようになったのは、やはり企業戦士としての男を全部女が支えてきて、家に帰ったら「風呂、飯、寝る」とか言うだけで、子育ても全部女がやるようにしたからだと思うんですけど、そういうのがアナーキーの対極、対極も対極すごい対極にあるんです。
今、日本は戦後のアメリカを中心とした世界の政策で、日本には軍備をさせないってなってるわけでしょ。でもそのかわりに男たちというのは会社に行くわけですから、で会社に一歩入ったら「ここは憲法が通用する世界ではない!」みたいにして、社員教育されちゃうわけですね。そこから逃げることができないという時代が、ずいぶん長く続いたと思うんですけど、今だんだん崩れてきているのではないかしら。女たちが目覚めてまずおかしいと思い始め、子どもたちも立ちいかなくなってしまっている。これじゃもうだめだ、ということみんな薄々感じている。そして、とても自覚的に感じている人たちもいる。
*2 戸籍:日本の戸籍にあたるものが欧米では身分登録制度。人の出生から死亡に至るまでの民事的な身分関係を国家などの公的機関が管理する帳簿に登録。
◉アナーキズム運動の誕生
日本の今までは、心の底から自由で本当に楽しいという感覚なしに、生まれたときから鋳型にはめられてきたわけですから、そっちの方が自然で正しいと思ってる人たちは、それが崩れてくるともっと「たが」をはめなければ大変だ、ということになるのではないかしら。体制側は危機を感じているから、もっと「たが」をはめようとしてくると思いますね。
でも、たとえば私が小さな有機農法のグループにはいったりし始めた20年前と比べても、今のほうがもっとたくさんグループができているし、もっともっと小さいところでみんなが変わってきて、いろんな動きをしていると思うんです。そういう意味ではみんながアナーキーを探り出しているような気がしている。
もうすぐ21世紀になりますが、19世紀・20世紀は軍事国家をつくって世界中を分割して、戦争をし、その過程で武器が発達し、最後には原爆ができて今でもまだそれをつくっている。そういう戦争国家、戦争文化、軍事文化の時代が二百年来続いた。電子レンジやテレビ、ラジオ、飛行機、原子力発電などはみな、その戦争文化のおこぼれなんですね。そういう中で、男も女も相当ゆがめられてきた。ゆがめられた男と女が近代国家の国民として国家に忠誠でなければいけないとされた、異常な二百年だったなと思います。
そういう中で本来の人間性を取り戻しつつ運動として、アナーキズム運動がヨーロッパで19世紀の半ばぐらいから意識的に生まれてくるわけなんですね。いちばん働いている男や女は、それまでは「自分たちがしがない生まれだから働いてあたりまえなんだ、旦那衆は生まれが生まれだから働かなくてもいいんだ」と信じさせられてきたけど、「おかしい」ってみんな思い始めるんですね。どうして、生まれながらにして働かなくてもいい人と、働かなければ食べられない人はいるのか。
そして食べられない人たちは、どこの国に住んでいても、みんな働くということにおいては同じ兄弟姉妹なのに、国が違うというだけで、上に立つ人が「戦争!」と言ったら何で我々が行ってお互いに殺し合わなければいけないのか? このことに目覚めたら、ガラッと世界が変わって見えたんですね。みんな同じ人間じゃないかと。
そもそもフランス革命のときに出された「人間と市民の人権宣言」というのは、女が排除されています。当時これを指摘した女性、オランプ・ドゥ・グージュは、断頭台で殺されました。ブルジョアジーの下で働いてる人々、女、奴隷は人間の中にはいっていない。いわば、ヨーロッパのブルジョアジーの男たちが人間であることを主張した人権宣言なんですね。しかし、19世紀半ばになると、働く男や女たちも、「自分たちも人間だ」と自覚するようになってきます。ここに生まれたのがヨーロッパにおけるアナーキズムの運動なんです。その段階でまず世界の平和が大切、戦争は絶対しない、国家が決めたヒエラルキーを認めない、という運動として始まってゆくわけです。
◉プルドン、バクーニン、クロポトキン
私の感じでは、19世紀の段階では、アナーキストも社会を工業化していくことにあまり疑問をもっていなかったように思います。貧しい人がいるのは、生産力が高まっていないからだ、生産力を高めるというのは良いことだと考えていたから、近代化の波にもある程度は乗っていたのではないかしら。
アナーキズムとエコロジーを結びつけたいちばん最初の人というのは、アナーキストでロシア人のクロポトキン(*3)です。ロシアはロシア革命が起こる前はツァーリという皇帝がいて、ブルジョワジーとか市民層があまり育っていない国だったんです。ただツァーリの権力があまりにも強大だったために、逆にそういう権力はよくないんだという思想が育つのね。それもフランス革命の影響です。
フランス革命の影響というのは、いろんな意味でものすごい勢いで広がりましたから、狭い意味でのヨーロッパ社会は全部フランス革命の影響、限定されたものであっても、人権宣言の影響を受けているんですね。ロシアのアナーキストのバクーニン(*4)とかクロポトキンは大貴族ですから、小さいときからフランス語で教育されるわけだし、高い教育程度なのね。そういう高い教育を受けた人が自分の国を見てみると、自分の周りや領地で働いてる人たちは、文字も知らなければ貧しい中で無知のままいる。これではいけないというのが、バクーニンやクロポトキンの出発点なんですね。
バクーニンは、アナーキストで、友人のプルドン(*5)をとても尊敬していた。フランス人のプルドンの中には、「自由の感覚」があるからなんですね。自由の感覚ってアタマで教えることができない。それをもってる人のそばにいれば、だんだんわかってくるものなんですね。バクーニンは、プルドンとマルクスを比較すると、マルクスは社会主義を学問的に一生懸命解明しようとしてるけど、マルクスの中には自由の感覚があまり感じられないと言った。そのプルドンが考えたいちばんの基本で、これをはずしたら近代のアナーキズムではなくなる、という思想があります。それは何か。
日本語でアナーキズムのことを「自由連合主義」とも言うんですが、別に難しいことではなくて、要するにヒエラルキーのある世界に抵抗して、一人ひとりが自由意志で決心し、みな水平に手を結び、連帯・連合していこうという思想、〈仲間のつながり〉の思想なんですね。自分の自由意志、相手の自由意志にもとづいて連合するから「自由連合主義」。「自由連合主義」というのはアナーキズムの代名詞です。リベルテールとも同じです。
それは、みんなが平等に自由に連合していく、ネットワーキングの社会をつくりましょうという思想で、ヒエラルキーとしての、上からの近代国家秩序を、断固として拒否するものなんです。これが基本です。プルドンはこんなシンプルなことを言うのに、何冊も何冊も本を書いた。プルドンは、自分が生産の主体になれば政治はいらない、小さな社会が無限に連合していく国際社会を考えた。
社会を下からつくっていけば上にある国家や国際関係、軍事同盟なんていうものは自動的になくなってしまう。一人ひとりの自由と同時に集団の自由があって、別の自由な集団とも自由な関係にある、そういう自由連合の創造をプルドンは夢見て、バクーニンが継承し、マラテスタもそれを受け継いでゆきます。そしてクロポトキンはそこにちょっと遅れて来るのね。バクーニンやマラテスタたちがつくっていた仲間の世界にあとから来て、なんて素敵な世界だろうと思うんです。
*3 クロポトキン(1842-1921):ロシアの地質学者、無政府主義者。貴族の出身で、シベリア地区の地理学的探検などに参加。30歳代でロシアの革命運動に参加、無政府主義者の傾向を強める。無政府主義者の理論家として、著書も多く後世に大きな影響を与えた。
*4 バクーニン(1814-1876):ロシアの思想家、革命的無政府主義の創始者。貴族の出身、軍隊に勤めるが辞職、モスクワで哲学を研究の後、ドイツ、フランスなどに滞在し、マルクスなどと交流。人間の自由は、神と国家との否定により達せられると考え、「自由な共同体の自由な連合」の原則を提唱し、暴力的手段により国家権力を絶滅することを主張した。
*5 プルドン(1809-1865):フランスの社会主義者、貧しい家庭に生まれ、植字工などの労働者となる。私有財産と共産主義とを批判して有名になった。社会問題の解決を相互扶助に求め、国家論については、無政府主義を提唱した。
◉弱肉強食ではなく相互扶助
弱肉強食という言葉があります。生物学者であるダーウィンが生物界・動物界を観察して何冊も本を書いていますが、強い種は弱い種を駆逐するんだという考え方ですね。それが社会思想の中にはいる。社会思想家がこれは国家や社会の闘争も同じである、というふうに変えてしまうのね。
強い国家じゃないとやられるんだ、だから何でも強くないといけない、競争も速くなければいけないんだということになって、国家同士の関係も強い国のほうがいいし、国の中でもお金持ちがいいし、男でも頭が良くてバンバン仕事ができる人がいいし、スピードがある人がいいのだというほうに変わってしまうんですね。だから社会思想としてのダーウィン主義は資本主義と結びついて、ずっと強い影響力をもってきました。
クロポトキンはシベリアの生態系を調査して、いろんな小さい種が相互扶助してることを見つけます。つまり強い弱いではなく、どの種も、それぞれが助け合ってひとつの生態系をつくっていることを発見して、そこから彼の思想を展開します。人間の世界もそうでなければいけないのだと。
たとえばライオンは羊を食べたりするけど必要以上に食べない。生き物すべて、周りの生命を飲み込んで生きているわけですよね。草食動物でも、草は生きているわけだけど、その生命をもらう、魚だって大きい魚は小さい魚を食べるし、小さい魚は海藻を食べたりして、みんな周りから生命をもらことによって、自分の生命を維持しているわけですね。生き物ってそういう存在だから、それは必要最小限度やむを得ないことだけれども、それをどのように人間に活かすかということが問題になるわけです。
エコロジカルな思想の根源には、生きてるものは、他の生きているもの食べなければ、生きていけないという悲しみがある。私は、人間の場合には「衆生無辺誓願度」というような希いを実践するために、必要最小限度の自分の体に良い物を食べさせていただきます、という生き方しかないだろうと思うのね。
仏教にもそういう思想があるんだけど、クロポトキンの場合には、みんなが助け合っていくのは当然だという。人間は自分が本当に必要な物を食べるだけじゃなくて、国家と国家の戦争なんかで不必要に人を殺すわけですね。ひとりを殺せば殺人になるけど、戦争に行ってたくさん殺せば勲章をもらったりするわけでしょ。本当に人間は自分が生きていく以上の略奪をするし、自分が生きていく以上の殺人をする存在である。それはおかしいから、相互扶助で生きていくのがいいんだとクロポトキンが言うわけ。
「相互扶助」というのは、クロポトキンが言って世界中に広まり、とても有名な言葉になったのだけれど、彼の学問的な裏付けも大切ですが、もともと人間の生活の中にあるものだし、アナーキストの中では当たり前のことだったのね。生態系の破壊が意識化されている今、エコロジストの間でクロポトキンがたいへん見直されています。
アナーキズムというのは、今言ったような全体の考え方、生き方をどうやって実践するか、というための方法なんですね。例えばあなたが「いいなあ、私の生活の中で少しはできるかしら」と思って工夫をする、それはもうあなたのアナーキズム。アナーキズムは学者が理論をつくるものではなく、基本は、みんながしあわせや自由を感じる、感じ合える、そんな人間のグループをどうやってつくったらいいか、という一人ひとりの実践の方法なんです。
「しあわせとアナーキー」というのをアナーキズム運動全体の中に据えると、アナーキズムにとってしあわせというのは、いつも自分だけのしあわせではなく、一緒にいる人、一緒に住む人もしあわせじゃないと、しあわせでないわけです。自由と同じです。自分だけ自由というのはないでしょ。相手に自由を与えようという決意なしには自分の自由はないし、渡された自由を本当に自分で実践しようと思ったら、自分の周りの人にどれだけ自由を許せるか、そういう「関係性」の中にしか自由はないですから。
「しあわせ」もまったく同じで、自分がしあわせと感じることだけではフワフワした空気みたいなものだから、やはり具体的な生活の中で、自分がしあわせというの自分と自分の周りの人間の中で実現するというのか。そのようにしてしかアナーキズムの中の「しあわせ」はないと思うんです。
マラテスタが言っているのね。人間は生まれたときから社会の中に生まれる。あなたを産んでくれたお母さんがいてお父さんがいる。そういう人間の集団の中に生まれるというのは逃れられないことで、選択できないこと。そういう集団をどういう集団にするか、があなたの課題なんだと。逃れられないから、その状況は受け入れるしかない、受け入れたときにその中で自分がどのように生きていくかということを、自分だけじゃなくて自分が一緒に暮らしている人たち、遠くや近くに暮らしている人たちとどういう関係をつくっていくかというのを自分で工夫すること、それが一人ひとりのアナーキズムだと思うんですね。
アナーキズムの流れは二つあると思うんです。ヨーロッパに啓蒙主義が生まれたときに、イタリアの中から「みんなの幸福」という考えが出てくるんだけど、コミュニティをつくって、一人ひとりが自由な感覚を育てていってしあわせになっていこうという流れが一つともう一つは現存秩序が悪いからこれを打倒せねばしあわせになれないという流れですね。フランス革命の中にはそれが両方入っていて、どちらかと言えば現存秩序を破壊するという方が強く出ていたと思う。この二つの流れというのは、ずっと今もありますね。
マラテスタは、ひと言で言えば、愛をすべてのものの上に置いた人です。愛って堅い言葉だけれど、イタリア語でアモーレ。連帯と言ってもいい。プルドンが言ったのは、自由と平等すなわち正義であると。マラテスタは、正義ということを言うと、一人ひとりが自分が正しいと思うから争いになる。正義というのはバランスをとろうとする行為で、その象徴は秤(はかり)だけれど、愛というのはもっとあげたいなあ、もっともっとあげたいなあ、という気持ちなんだ。僕はアナーキーの究極は愛だと思う、と言ったんです。自分のできることをして、必要なものもらうというのが愛のアナーキズムだと思うんですね。
(コリーヌ・ブレ編著『人間アナーキー』モジカンパニー/2002より)
〈とだ・みさと (1933-2018)〉
歴史家。マラテスタ研究者。文教大学教授。イタリア語の主著『エッリーコ・マラテスタ―マッツィーニからバクーニンまで』はマラテスタの前半生に関する基本文献として今日まで参照され続けている。また、アナキスト・クラブでの活動から、読売争議等に関わった印刷工・布留川信との親交が深く、没後の資料整理に尽力。同クラブと布留川信の資料を引き継ぎ、それらは2010年に当センターに収められた。主な著作は、アーダ・ゴベッティ著(戸田三三冬監修・解説、堤康徳訳)『パルチザン日記 1943-1945 イタリア反ファシズムを生きた女性』(平凡社、1995)、「平和の方法としてのアナキズム」『国家を超える視角―次世代の平和』(法律文化社、1997)、戸田三三冬・藤巻光浩編著『グローバリゼーション・スタディーズ〔入門編〕 国際学の視座』(創成社、2005)など。
(詳しいプロフィールはセンター通信42号に掲載)